米将軍徳川吉宗

 


 

 徳川8代将軍吉宗(よしむね)の将軍就任のいきさつについては「テンカートール徳川吉宗」でお話しました。

 ここではかの有名な享保の改革で(こめ)将軍(しょうぐん)と言われた吉宗の治政をみます。

 吉宗が前将軍から引き継いだ時の財政は、天領(直轄地)からの年貢等の租税収入では御家人の給与や役所運営経費、大奥経費等支出が上回りで差し引き赤字でした。

 金庫の中は数十万両しかありません。

 3代家光は400万両を残したと言われます。5代綱吉時代に数十万両にしたのです。

 戦国時代まで新田の開発が進み、米の収穫が増え、それにつれて年貢も増えていきます。

 江戸時代に入り、新田開発は下火になります。

 金銀の産出も活発でしたが、17世紀に以降だんだん産出量が減ります。

 それに5代綱吉将軍時代の地震や宝永山噴火等天災への出費と浪費です。

 

 吉宗は緊縮財政政策の最初として支出の抑制をします。

 そして収入増のため年貢の引き上げを計ります。

 百姓より年貢の取立方法を変えて増税します。代官を更迭して代官と百姓とのなれ合いによる年貢減収を排除します。

 これだけでは財政は改善できません。御家人への給与も滞る恐れが出てきました。徳川幕府開闢以来のことです。

 全ての藩へ幕府への米の拠出を命じます。上米制(あげまいせい)と言います。知行の1万石につき百石です。18万7千石になりました。幕府直轄領の年貢米は140万石位でしょう。

 この制度は幕府の収入が安定する享保16年(1731)まで10年間続きます。

 年貢の増税施策で収支が安定しそうになると今度は米安(こめやす)諸色(しょしき)(だか)になります。諸色とは米以外の産品です。

 不作で米の値段が上がると町人は困ります。不満を為政者にぶつけます。

 凶作は飢饉となります。暴動が起きる恐れがあります。これはこれでその時々対策を立てる必要があります。

 

 米価が安くなりますとそれに引きつれてそれ以外の産品の諸物価も下がる傾向がそれまで普通でした。

 しかし吉宗の時代には米の値が下がってもそれ以外の物価が下がらないで高めで推移するのです。

 江戸時代は封建制で石高制です。官僚であるほとんどの武士は、給与は米で受け取ります。一家の食料分だけ残し後はほとんど売って金銭に代えて生活に必要な品物を買います。

 米の値段が下がって買う品物(商品)が高くなりますと生活が苦しくなります。

 武士経済の根幹をゆるがす問題です。

 吉宗は対策を立てます。

 商人に(くう)(まい)取引(信用取引)を認め米値上げを計り、諸藩に(かこい)(まい)(貯蔵)を命じ市場への流入を抑制します。

 米以外の諸物価引き下げ策として、業種組合を結成させ価格統制をします。

 贅沢品の販売を規制します。

しかし対策の効果は容易ではありません。

 

 それは実に江戸時代もここにきて石高制の経済運営が消費経済の発達に伴って行詰りを見せ始めたのです。

 武士経済におけるは大名や大型武士は知行制(米の収穫量基準)で領地を与えられ、そこからの年貢を米で得ます。これが税収のほとんどとです(80パーセント以上)。一般の武士のほとんどは将軍や藩主から米で給与を得ます。

 百姓は水田からも米を収穫しない畑からも米で年貢を払います。

 武士の収入も百姓の年貢の支払いも米なのです。

 米は通貨の役目をします。

 しかし食料分の米を残して市場に売って金銭に代えて日常生活品を買い、その他交際費、遊興費に出費します。もちろん家来がおれば米又は金銭で給与を払います。

 ここで貨幣経済が出てきます。

 米は金銀銅の金銭貨幣と共に通貨の役割をし、幕府としては米が基軸通貨だったのです。

 生活品でもぜいたく品でも遊興などのサービスも武士以外が作り、提供します。この提供受けるには江戸時代以前から金銭で決済されてきました。

 徳川幕府は年貢をすべてを米での徴取にしたのです。

 江戸時代基軸通貨は米で、金銭は従でスタートしました。

 基軸通貨の米の価値は一定であるからその他の生産物(商品)の価格はそれにつれて安定するとの考えでした。

 しかしそうはいかなくなって来たのです。

 生産物に付加価値がつき、よりよい便利な又はぜいたくな商品が数多く出回り、作り手も売り手も分業化され商品価値が高まります。値段が上がっても買い手がつきます。

 資本を投入しての大型の商人も現れます。

 

 米の値段のコントロール(出荷制限)は幕府や藩だけではききません。米商人も仕切ります。

 米を物の価値の一定の基準にするにはだんだん難しくなります。

 日本国での米の生産量と全人口は江戸時代初期と末期ではとんど変わりません(米の収穫量3000万石、全人口は2500万人)

 米の収穫量増減で米の値段が上がり下がりするのではありません。消費経済の活発化が物価高騰になっていったのです。

 もちろん飢饉の時は米価は高騰します。米の在庫の緊急出動もしなければなりません。これは臨時の対応です。

 

 吉宗は政権を通してお米対策に終始しました。

 諸物価を下げるには消費を活発にしない。ぜいたく品の禁制は江戸だけでなく全藩に発した一貫した布令でした。

 

 これは石高制をとった徳川幕府の宿命です。

 それに税金を百姓よりの年貢を主要な税金としました。全収入の8割以上でしょう。

 後は金銀銅の鉱山収入ですが、金銀の産出量は激減します。

 商人からの運上金や冥加金がありますが、これは営業権にかける臨時の税金です。貿易から利益はありません。

 金貨(小判)改鋳(悪貨)による収入はその時の臨時収入です。

 新田開発もありますが、たいしたことはありません。

 恒常的な収入は年貢に頼る収入構造です。

 増やそうと思えば年貢の増税です。百姓ともめます。

 

 吉宗は終始米対策をしなければなりませんでした。それで(こめ)将軍(しょうぐん)と呼ばれていたのです。

 享保の改革は社会事業も有名ですが、米と物価の経済対策が策主要な取り組みです。

 この後の歴代将軍もそうでした。

 明治に入って維新政府が石高制を廃止し、年貢を固定資産税の金銭での支払いにしたこと。所得税、法人税を主要税にしました。現在と同じ方法です。

 徳川幕府は営業権などの臨時税の徴収では取り足りませんでした。所得税徴収を考えるべきでしたでしょう。

 

 吉宗は目安箱(投書箱)を設置しその投書から小石川養生所を設立、町火消の設立。瓦葺の屋根や土蔵造りの奨励、日除け地の設置。薬草の栽培を全国に普及。飢饉にも有効な甘藷(さつまいも)栽培の奨励します。

 ぜいたく品の禁制だけでなく江戸市民の行楽地整備を行います。隅田川の桜・花火、中野の桃園、御殿山の桜、飛鳥山の桜です。今日にも残っている個所もあります。ぜいたく禁止令への市民の不満へのガス抜き政策だったかもしれません。

 

徳川幕府の治政は実際は老中が仕切ります。吉宗は老中まかせにしません。老中、奉行を幕僚にして陣頭指揮します。

江戸町奉行大岡越前守が有名ですが別稿をお読みください。

以上

2024年5月13日

梅 一声