神功皇后考

 


(じん)(ぐう)皇后(こうごう)については戦後の学校の教科書に載っていません。

 太平洋戦争前までは日本では有名な方でした。

 明治に入り維新政府は西洋に見習って紙幣に天皇(王様)の肖像画を印刷することにしました。

 現天皇は聖影を汚すことになるとして避け、神武天皇と神宮皇后が候補にあがりました。

 維新政府は天皇家の権威を高めるため万世一系の初代の神武天皇にしようとしたのですが、当時一般庶民には名前が浸透しておらず、庶民の間では神功皇后の方がなじみが深いことが分かり、神功皇后の起用が決まりました。

 尊王討幕で天皇、天皇と言っていたのは武士やインテリ層で、江戸時代の一般庶民は将軍が一番偉かったのです。

 明治に入って急に天皇、初代神武天皇と言われてもすぐには馴染めなかったでしょう。その後尊皇の教育で神武天皇を教えました。

 庶民は神功皇后を古代より神様として崇めていました。

 

 この神功皇后がどのようなお人であったのかを語りたいと思います。

 現在実在の方か否かで議論があります。

 非実在の方であるとの説の方が主流なのですが、実在説をとる研究家も多くいます。

 先ず古事記、日本書紀から実在の方として、どのような事績を残された方かをまとめます。

 古事記は天皇家のルーツの物語で712年(和銅5年)、日本書紀は正式の国史で720年(養老4)に編集されました。奈良時代の初めです。

 両書とも神代の時代の記述もあり、初代神武天皇から25代武烈天皇までは神かがった話が多く、事実かどうか疑われるところが大です。天皇の平均寿命も100歳です。

 (じん)(ぐう)皇后(こうごう)は14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后です。

 和名は気長足姫尊(おきながらたらしひめのみこと)ですが、漢風諡号(後年のおくり名)で神功皇后です。ここでは神功皇后と呼びましょう。

 仲哀天皇の8年(天皇就任8年目)に九州の熊襲(くまそ)(筑紫―福岡県の南)を討つために九州に出征し筑紫のかしいの宮(福岡県)で神に撃つか否かをうかがうことにします。

 神功皇后に神を寄りつかせて神の意向をうかがいます(託宣)。

 神の(ことば)を要約しますと、「熊襲を討つ値打ちなし。朝鮮の新羅を討つべし」と。

 日本書紀では仲哀天皇はこれを聞かず翌9年に熊襲と戦うが勝てず、病没します。

 古事記では託宣中に仲哀天皇は神に不満の態を示します。

その場で死にます。

 神功皇后が神に神の名を問います。

 「表筒男(うはつつのお)、中筒男(なかつつのお 、底筒男(そこつつのお)と言われます。

 この神は後年神功皇后と合わせて四神として住吉神社で祭られます。

 

夫の仲哀天皇亡き後神功皇后は神からの指示通り朝鮮半島の新羅征伐に向かいます。

その時、神功皇后は妊娠しており、産み月は9月でしたが、まじない(石をとって腰に押し込む)をして遅らせます。

 10月に筑紫(福岡)を出航し、半島に到着後たちまち新羅を降伏させます。この勢いに高句麗と百済も降参の申し入れがあり、朝貢を約束します。

 これを三韓征伐と言います。

 神功皇后は凱旋して12月に筑紫で男の子を生みます。15代(おう)(じん)天皇‘(誉田天皇=ほむた)です。

 翌年神功皇后は応神天皇の摂政になります。

 この年(神功摂政元年)に15代天皇の座を巡って反乱が起こります。

 仲哀天皇には神功皇后と結婚前に妃がありその子二人、麛坂王(かごさかおう)と熊王(くまおう)です。

 父親の仲哀天皇の後の天皇を狙ってのことです。神功皇后親子に対する反乱です。

 しかし麛坂王は猪に食い殺され、熊王は神功皇后の策略にあい征伐されてしまいます。

 応神の次期天皇が確定します。

 この後神功皇后は摂政69年まで実権を握り、100歳で亡くなります。その間朝鮮の新羅、百済から朝貢あり朝鮮とは交際が続きます。

 ここで日本書紀だけに記述されている事項があります。摂政39年(摂政になって39年目)です。

注書きのような形での記述です。

 「魏志はいう、明帝の景初3年(西暦239年)6月倭の女王が大夫難斗米らを派遣して帯方郡にやってきて、天子の洛陽に行くことを求め、朝献す」

 魏志は当時の中国の魏の歴史書で歴史事実を示す一級史料です。日本書紀の編集者は中国の魏志の倭人伝の倭の女王についての記述を読んでいました。

 こんなことをわざわざ書くのですから実在がはっきりしている倭の

女王卑弥呼(ひみこ)を神功皇后に当てはめていると解釈するのが普通でしょう。

 それでは古事記、日本書紀の記述での神功皇后の話はおいといてです。 

 神功皇后はいつの時代の方かです。

 古事記と日本書紀での朝鮮と倭の闘争の時期が西暦で400年前後と推定します。

 これは朝鮮の高句麗で西暦400年前後に活躍した(こう)開土(かいど)(おう)の石碑が現在残っており、その碑に倭との闘争のことが刻まれています。

 朝鮮の古代の歴史書の三国志にも倭との闘争のことが記録されています。

 それ以前は倭と朝鮮の百済は親しく交流していたようです。

 この石碑は歴史事実を伝える一級史料です。

 しかしこの朝鮮との闘争は実在派は「神功皇后が大将で攻めた」とします。

 非実在派は、

「そもそも古事記・日本書紀も初代の神武天皇から25代武烈天皇まで実在が疑わしい。このころ倭国に大王はいたが名前を特定できないし、万世一系ではない。

実在の天皇は宋の記録による倭の五王(讃=15代応神、仁徳又は履中天皇・珍=仁徳又は反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇))からである。

14代仲哀天皇が非実在であるから皇后の神功は存在しない。

倭の女王卑弥呼は西暦で244年ごろ亡くなっている。

日本書紀の編集者は神功皇后実在証明のため120年前の倭の女王の卑弥呼を無理やり引っ張て来た。

高句麗の広開土王碑、朝鮮の三国志(歴史記録)にも中国の歴史書にも神功皇后のことは記述がない」。

実在派は、

「神功皇后が女王卑弥呼でないとしても、神功皇后は実在した。それは皇后が西国、九州、近畿にわたり行幸された各地の多くの神社の祭神が神功皇后である。その数全国で千社以上。とりわけ住吉神社が有名で全国に600社あり、大坂、神戸、博多が名高い。各地に神功皇后行幸の言い伝えや記録が残っている」と言います。

学会では非実在説が主流です。ですから現在の教科書には載りません。

 

最後に余禄です。異説です。

仲哀天皇と神功皇后との間に生まれた応神天皇は本当に二人の間に出来た子かと。

大阪の住吉神社の残された記録には住吉神社の神と神功皇后との間の子と

とれる記述があります。

 さらに応神天皇は神功皇后と大臣たけうち(建内・武内)の宿祢(すくね)との間の子

であると。

大昔からささやかれてきた話です。

神功皇后はそんな伝承がある方です。

以上

  2025年1月13日

 梅 一声