一休さんと一休宗純

 

 


一休さんと言えばお噺(お話)の一休和尚が有名で、実像の一休宗(いっきゅうそう)純和尚(じゅんおしょう)も同じ人を言っていますがここでは別けて語ります。

と言いますのは実像の一休宗純は室町時代中頃の実在の人で、お噺の一休さんは江戸時代に入って創作された噺だからです。

一休さんの噺(はなし)は江戸時代の1668年に「一休ばなし」として出版されました。著者は不詳です。

風狂の狂客だった高僧一休の説話と称しておもしろおかしく書き綴った作品で人気を博しました。

笑い噺、小噺、落とし噺、とんち噺です。

一休が生前に語った説話とはほとんど関係ありません。

話しの原典は16世紀末から17世紀中ごろに発表された醒酔笑(せいすいしょう)(落語の原典)、遠近(おちこち)(くさ)、かさね草子、百物語等と言われています。

「一休ばなし」の後これを元に又続き物のようにして江戸時代後半まで「一休関東(ばなし)」、「一休諸国物語、「一休諸国物語図絵」等々が出版されます。

明治に入り子供絵本でも取り上げられ、戦後はテレビアニメでも放映されました。

もう有名な一休さんのとんちばなしは皆さんご存じの通りです。

例をあげます。

〇お寺の旦那(檀家)がいつも得意げに皮の袴をはいて寺に参ります。一休さんは意地悪をして、“皮は寺内禁制(禁止)、持ち込むとばち(罰)が当たる”と表示します。

旦那は平気で皮の袴で参内します。そして言います「皮の袴がいけないなら寺の太鼓はどうか」

一休さん答えて曰く「太古は一日三回ばちで打つ(鳴らす)。旦那もばち

で打ちましょう」

 

 〇一休さんは旦那の家に招待されます。

  旦那の家の前には川があり、橋を渡らねば家に入れません。

  橋の手前に「このはしわたるべからず」と表札があります。

  一休さんは平気で橋を渡ってしまいました。

  旦那の非難に対し一休さん曰く「はし(端)はわたっていません。(橋

の)真ん中を渡りました」

 

 〇師の華叟(かそう)は蜜を好みます。しかし小僧にはやりたくはない。普段から

  「幼き者がこれを食すれば死ぬ、なめてはならぬ」

  しかし小僧の一休は師の留守に蜜を全てなめてしまいます。そして師の大

事な茶碗を割ります。

師が帰ってきて所業をとがめます。

一休さん曰く「師匠の大事は茶碗を誤って割ってしまいました。死んでお

詫びをしようと、蜜をなめてしまいました」。

 

 外にも屏風の虎退治、正月のしゃれこうべ、門松などよく知られたはなしがいくつもあります。

 

 それでは実像の一休宗純です。

 1394年(明徳5年)の生まれで1481年(文明13年)没で、享年

88歳で、当時としては抜群の長生きです。室町時代中頃の人です。

 1474年(文明6年)に京都の大徳寺の住持(住職)となります。

 京都には室町時代足利将軍家指定により臨済宗(禅宗)には寺格があり、五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺そして五山の上として南禅寺)高位順の指定があります。

 大徳寺はこの寺格には入りませんが、臨済宗大徳寺派として堺の商人や管領細川家を旦那(スポンサー)にして五山の寺と対等の勢力を持っていました。

 ところが応仁の乱(1467年(応仁元年)から1477年(文明9年))で他の寺もそうですが、大徳寺もほとんどの伽藍が焼失しました。

 一休は住持に就任して堺の商人の献金で法堂外主要伽藍を再建させました。

 これだけですと一休は大徳寺の歴代住持の一人として記録されるだけでしょう。

 しかし一休は普通の高僧ではありませんでした。

 いわゆる破戒坊主でした。

 酒は飲む、肉食はする、飲み屋には行く、女郎屋に女を買いに行く、男色、妻帯はする。

 修行もします。

 一休の居場所は山林樹下(清浄な修行)と酒肆淫坊(飲み屋、女郎屋通い)の二本立てです。

 一休は風狂の狂客と言われ常軌を逸した言動を取っていました。

 在野の禅僧としての戒めを超越していました。

 形式、習慣、常識、戒律、権力に捕らわれず行動します。

 一休の特技は漢詩です。詩偈(しげ)(さん)が得意です。能筆でもあります。

 詩偈はその場その場の状況から仏の教えを漢詩で現わします。一休の詩偈は狂雲集にまとめられています。1000余りあり、ほとんど七言絶句(縦に七語、横に四列)の漢詩です。

 内容は大変難しく、当時相当の教養人しか理解、評価できなかったでしょう。今でも難解です。

 讃は掛け軸の絵のその余白に絵に関して褒めたたえる詩、歌を書くのです。

 これらは当時公家、武家、商人のインテリから評判よく、一休も気楽に応じて書いたようです。

 これが一休の生活費にあてた収入源でしょう。

 住まいは京、大和を転々と変わりますが、堺の商人たちが庵として提供しました。

 この教養抜群の破戒坊主が当時インテリから絶大な人気がありました。

  

一休の素性、生い立ちです。

一休死後、弟子の墨斎によって年譜(履歴)が著わされます。

 京都で生まれ母一人、子一人で6歳で京都の安国寺入門、出家します。17歳で(けん)翁宗(おうそう)()の弟子となり、戒名を宗純とします。21歳の時悟りが開けないと自殺を試みようとしますが、母親に止められます。

 22歳の時に京都大徳寺の高僧華叟宗(かそうそう)(どん)(琵琶湖西岸堅田に隠棲)に入門します。ここで五山の寺から大徳寺に移ったと言えます。

 以後大徳寺の僧になります。

 25歳の時「一休」の道号を授かります。

 華叟が印可状(悟りを開いた)を与えようとしますが、辞退します。

 一休は、悟りは師匠(他人)が認める者ではなく、自分自身の問題だとの考えです。よってその後弟子にも印可状は与えませんでした。

 47歳の時には大徳寺内の如意庵に住みます。2年程住みます。

 その後住居は京、奈良、摂津と転々と変わります。

 詩偈と讃それに能書家(達筆)と破天荒の僧として堺の商人たちインテリに人気を博します。

 74歳の時(1467年)応仁の乱が勃発し大徳寺は焼失します。

 一休は乱を避けて又転々と移ります。

 77歳の時摂津の住吉浦(大坂の住吉大社近く)に住んでいた時に盲目の美女「森女(しんじょ)」((しん)侍者(じしゃ)・お森)に会います。

 これより死ぬまで10年間彼女と酬恩庵で同棲します。

 彼女との情愛は深く閨房の秘事をも漢詩で綴っています。

 酬恩庵は一休寺とも言われ現在も京都府京田辺市(京都市の南)にあります。

 禅の僧で庵(寺)で女性と同棲は江戸時代まで一休だけでしょうか。

 81歳の時に請われて大徳寺の住持(大徳寺派の最高峰)に就任します。

 応仁の乱も終り焼失した大徳寺の再建には堺の商人に人気がある一休の登用が必要だったのです。

 一休は在野の僧で通すつもりでしたが、やむを得ず引き受けます。

 堺の商人の支援で法堂等を再建します。

 1481年(文明13年)11月21日、88歳で逝去します。

 一休は大徳寺の住持で大徳寺派の総帥でしたが、大徳寺には住みませんでした。

 弟子によって、狂雲集が編集され、年譜(履歴書)が著わされ、堺の商人の寄進で大徳寺内に一休を記念して真珠庵が建てられました。今日も残っています。

 最後に一休は後小松天皇の落胤説があります。

 弟子が作った年譜にも記述されていますので当時うわさがあったのでしょう。真実であるとの説を取る人が多いようです。          

 以上

2025年4月15日

梅 一声